作品解説『こうかふこうか』佐藤両々 ぞんぶんにネタバレするよ

異常な不幸体質女子・福沢幸花(ふくざわこうか)と異常な破壊体質男子・岩井恭介(いわいきょうすけ)を中心としたオフィスコメディ。恋愛要素にあふれているのに、オフィスラブコメというと結構語弊がある印象です。

 

 

というのも、基本的には「怪我、病気、事故、失せ物から、誤解、間の悪さ、運のなさまで含めて毎日に不幸しかないのではという状態ながら、至って呑気で前向きな不憫系けなげOL、福沢幸花が毎度毎度ひどい目にあうマンガ」であって、笑いの中心がラブではないんですね。

よくもまあここまで集中してこの子のまわりに悪いことが起きるな!! っていうののほうが、この作中の「ネタ」なわけです。

幸いにして幸花が底抜けに前向きで自分が不幸とは思っていないのと、少し話が進むと周囲のキャラクターが育って彼女のことを守ってくれるようになるので、そこまでツライ印象のマンガではありません。そこまで耐えられるかどうかがキモでもありますが。

彼女の勤務するオフィスには、異常な破壊体質男子・岩井の他にも異常な幸運体質女子・祝部千寿や、動的なツッコミをする頼れる姉御体質・亀山深紅、静的なツッコミをする頼れる学級委員長体質・鶴見真白がおり、基本的には終始ドタバタしています。

このほか、長身のイケメン営業女子・慶喜寧々や同僚のモテ系男性・財前などが主流メンバーで、あとは後半に新人君が1~2人入るくらいかな。幸花と同じように、「よくもまあここまで集中してこの子のまわりに○○が起きるな!!」というネタの中で、徐々に人間関係に変化が起きていきます。

ちなみに、幸花の不幸、岩井の破壊の他には、初期は祝部のラッキー、中期は寧々の性別あたりが鉄板のネタになっている感じですね。

まとめて読むと、各巻の終盤で人間関係に変化が起こり、次巻へのヒキになっていました。

 

020

 

さて、連載開始当初から冒頭に述べた二人のオフィスラブコメというわけではなく、岩井は当初幸運体質女子・祝部千寿に惚れており、彼女の結婚が確定してへこむ様子なども描かれ、2巻の途中まではひたすら「幸花が単独で不憫街道をぶっちぎる」もしくは「岩井の破壊に幸花が巻き込まれる」というパターンを突っ走ります。

しかし2巻の最後で、まさかの岩井が幸花に公開告白。しかし姉御体質・亀山は以前から岩井に片思いしていたため、それによって仲のよかった幸花・亀山・鶴見の関係にもヒビが入ることに……。

と、ここから、各人のキャラクターづけとして与えられており不変にすら感じられたそれらが、同時に「欠点」でもある……というふうにも描かれ始めます。

はっきり、きっぱりした性格の亀山はある意味おせっかいでもあり、本人が自分でやらなければならないことも代わりにやってしまうこともある。言いたいことを言える性分だが、そのぶん言葉で失敗することもある。あふれんばかりの行動力は、時として暴走もする。

幸花の波風を立てない性格はただの八方美人で、自分が傷つくことを極端に恐れているだけで、それでいて察してくれる周囲に甘えている。不満を言わない、波風を立てないことが「いい子」の条件ではないが、彼女はそれ以上のものになれない。

最近の4コマはだいたいストーリー仕立てになっていますし、キャラクターの成長は決して珍しいことではないとは思いますが、キャラクターの個性でまわしているコメディ作品でそこを否定してきたというのはひとつの取り組みとして興味深い部分はありました。

 

020

 

とはいえ、このあたりがうまくいっていたかというと、ただかき混ぜただけというか、もやっとさせただけに終わってしまったのが残念なところ。

彼女たちのアイデンティティークライシスと、岩井が幸花に告白をして以降の財前→幸花←岩井←亀山の恋愛関係が同時期に訪れてしまったので、ちょっとグチャグチャしてしまい、せっかくのキャラクター成長部分への描き込みが足りない印象を受けました。

結局、3巻の末で幸花が煮え切らないうちに岩井が諦めムードになってしまい、今度は亀山からの公開告白で亀山と岩井が付き合うことに。そのころやっと幸花は自分の気持ちに気付いて……いやしかし財前も動き始め……そして社内ではひたすら「わが社のプリンス」扱いしかされなかった寧々の社内恋愛も持ち上がって……!! という怒涛の展開が4巻で訪れます。

4巻ではサクサクと物語が進んでいきますが、3巻から登場した何もできない新人くんが鶴見に惚れたりなんだりの「今それを膨らます必要があったかな」というような要素もチラホラと。しかしモノの流れとはいえ今まで受け入れるしかできなかった幸花が後輩を叱りつけることができたり、それにより後輩も少しは態度を改めたりと、最終巻でも彼らの成長が諸々と見てとれました。

 

020

 

オーラスでは無事幸花と岩井が結ばれ、あとがきでは数年後の彼らの姿がカットで描かれており、哺乳瓶を割る相変わらずの岩井と赤ん坊を抱く幸花、髪を伸ばして自分の理想であったかわいい奥様を満喫している寧々、大きくなった双子の娘と一緒に幸せそうな祝部、財前からプロポーズを受ける亀山、そしてどちらと結ばれたのかわからない、最終回にいきなりぶちこまれた要素を若干濁されたままのウエディングドレス姿の鶴見を見ることができます。

わたしは○年後オチが結構好きなのと、これでもう彼らの姿を見ることはできないというのに作者の近況報告ばかりされるあとがきが嫌いなのとの相乗効果で、このカットはとても嬉しかったのですが、それと同時に「ああこの作者さんのパターンが出ちゃったなー」とも思いました。

なんというか手近でやたらくっつきあうのと、その中の1組は意外性どころかなんでこんな組み合わせにしちゃったかというカップルをつくるのは『天使のお仕事』のときもそうだったので……。パターンというほどの事例はないかもしれませんが、最終回1本前ですら接点のなかった人たちや、作中で恋愛要素のなかった人たちが急にくっつくパターンをやられると、そこまで積み上げてきた人間関係がもったいなくないかなあと気になってしまって。

これ、現在連載中の『あつあつふーふー』や『わさんぼん』でもやられるんじゃないかなーと思うと、今から戦々恐々としております。

 

020

 

作品全体としては、やはり3巻の迷走がちょっと尾を引いてしまったかなという印象はどうしてもありますが、精神的な調子のよいときに読む分にはとても面白いです。

……というか、若くて元気な人が読む分には面白いのか?

わたしこの作品はリアルタイムで掲載誌でも読んでおり、コミックスも発売後すぐに入手していて、自分の中では結構お気に入りのマンガという位置づけだったんですね。なので、そのころから3巻の迷走についていろいろ思ってはいても、好きで面白いマンガ……だったのですが。

今あらためて紹介のために読み直してみると、オチをつけるためや事件を起こすためとはいえ、岩井に限らず登場人物が全体的に考えたらずで学習能力がない風に見えてきてしまうところもあって……。また幸花の不幸や岩井の破壊のケアについても、それでいいのかという点も多々あって……。

ウーン……。

と、このマンガについての印象が結構変わってしまったのでした。同僚の結婚式のウエディングケーキを倒しておいて、替えが出てきて「さすが準備万端」じゃないだろうよ……とか……結構金銭的被害の出る状況もネタとして処理されているので、自分の精神状態によっては素直に「マンガだから!」で楽しみきれないところもあるんだなーと。自分の頭が固くなってきているのかもしれません。やばい。

 

020

 

それでも、連載開始当時は雨や病気で修学旅行はおろか遠足にすら行けなかった幸花が、そして会社のみんなと初旅行に行っても脱衣所で転んで骨折し、温泉には入れなかった幸花が、みんなの見守る中で露天風呂を楽しめたのもよかったし、海に行ったのも楽しそうだったし。

さらには、下駄箱を間違えてラブレターを入れてしまったせいで1年間好きでもない人と付き合ってしまった幸花が、好意を寄せてくれているけれども本命ではない人のお誘いをきちんと断ったり、自分から好きな人に好きですと言えたことが、諸々嬉しいと思う程度には、この作品好きなんですよね……。

また違うときに読むと、肩の力を抜いて楽しめるのかもしれません。

少なくともこれからお楽しみになる方は、リラックスした状況でお楽しみくださいね。

 

020

 

あと、なんだかんだいろいろ言っていますが、恋愛関係を作品のベースとして進行してきた本作が、「紆余曲折の末、幸花が岩井に告白して、二人が無事にお付き合いを始める」のが最終回という組み立ての部分は最高だと思います。

4コマ関係は、結構「そのネタでひっぱってきたのにこれしか触れないで終わるんかい」とか「あれだけひっかきまわしといてこんなにストンと決着つけるんかい」みたいな終わり方をする作品が少なくないんですよ。

それが、特に打ち切りとかではなく、コミックスのページ数にあわせて調整しながら連載されているような人気作品でもザラにあることなんですね。

なので、コミックスの巻数と最終回までの回数を計算して、二人の距離感が変わってしまったことも含めて告白までの段階を踏み、きちんとエンディングを迎えてくれたとことは、いち読者として素直に嬉しく思っています。

 

020

 

また、本エントリ執筆完了後、あれだけ好きだったマンガに対してこの感想なのわがことながら解せないなーと思って4巻を読んでみたのですが、4巻を読んでいるだけなら前と同じように好きでした。

だからといって、4巻だけなら面白いですよとか、4巻だけ読めばいいですよって作品ではないんですよね……。1~3巻の積み重ねがあるからこそ、4巻でのみんなの行動が愛おしいわけで。ううむ。

あとは、今までひっかかっていた部分を散々吐き出したからというのもあるかもしれませんね。自分はある程度読みつくした感があるので、今後は4巻だけ楽しもうと思います。

 

020

 

おまけ情報①
全巻、カバー下表1・表4に描きおろし4コマがあります。

おまけ情報②
4巻に『天使のお仕事』『しょっぴんブギ』のコラボクリスマスマンガが1p収録されており、この3作品のツッコミ女子が同級生であることがわかったりもします。カバー下マンガは彼女たちの学生時代です。

また、同じく4巻で出かける京都で訪問した和菓子屋さんは明らかに『わさんぼん』のお店ですが、登場人物は斜め後ろからのアングルに統一されているため瞳の見えないあくまでモブ的な描写にとどまっています。また、こちらでは「亰都」ではなく普通に京都です。

 

 

 

 

 

田中圭一さんの『ペンと箸』の面白さ ② その面白さは、田中圭一さんがマンガ家だからこそ

田中圭一さんの『ペンと箸』の面白さについて勝手にうだうだ言うエントリ第二弾です。

 

 

さて、前回は「焦点のあわせかたがとても秀でていて、料理で言ったら下拵えがとてもお上手」的なことを申し上げたわけですが、さらにもう1点『ペンと箸』が面白くなる決定的な要素がありまして、それがタイトルにも収めたように、「田中圭一さんがマンガ家だから」という点なわけです。

「マンガ家だからマンガが上手で当たり前」っていう話じゃないですよ。

そうではなく、マンガ家というお仕事を選んだ人、マンガ家という職業人そもものについての理解が、大前提として田中圭一さんの中にあるじゃないですか。そこで、各作家さんのエピソードについてとてもフラットに受け止めてフラットに表現してくださっているんですよ。

「描く」ということの大変さ、「描き上げる」ということの偉大さが空気の中にあるから、ことさらにそこをフォーカスしない。「描く人間とはいかなるものか」ではなく、「描く人間とはこういうものぞ」という空気であり、こちらもその「こういうものぞ」の空気を前提として読むことができるんです。

 

020

 

『ど根性ガエル』の作者・吉沢やすみさんの回なんか……もう……「描ける人」が「描けなくなる」怖さというのを知っている、それがどういうものかを知っているからこその描写だよなあと。ご子息の吉澤康宏さんが、当時の吉沢やすみさんについて触れた時も、やはり「エー」という「第三者の反応」ではなく「うわあ つらそう」と頭を抱えるという、同業者としての「理解」なわけですよ。

この回で、進行アシスタントである作中の女の子が「エー描けなくなっちゃうなんてことあるんですか!!」って反応をしたらだいなしだと思うんです。それが読者に寄るってことだとしても。

そういう意味で、逆に「業界外の人が抱くかもしれない驚き」については触れないぶん、読者との間にはちょっとした距離すらあるかもしれません。でもそれがいいし、それでいいと思う。

ちなみにこの回は、描けなくなり失踪した、という部分は共感を交えつつあくまでさっと流し、近年の吉沢やすみさんに大きくフォーカスを当ててすばらしい余韻のままひいていく、あの構成がまたすごいなと思います。正直泣きます。泣けそう、泣いちゃいそう、ではなく、あの優しさと間と視点がもう……正直泣きます。

 

020

 

というわけで、身も蓋もなくまとめると「ウッソーホントーシンジランナーイ」の介入しない「大人のマンガ家による・マンガ家とマンガ好きな人のための・大人のマンガ、『ペンと箸』は無駄な盛りがなくてとっても美しいしとっても面白いよ」ってことです。

サイトで無料公開されておりますので、是非。

あと、この『ペンと箸』から田中圭一さんに入られて、他の作品を読まれてショックを受けられたとしても当方は一切の責任を持ちませんので悪しからず。個人的には最初期の『ドクター秩父山』が今でも一番面白いよ。

【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】最新回からの一覧はこちら

Twitter:はぁとふる売国奴(keiichisennsei

Facebook:http://www.facebook.com/keiichisennsei

<個人的に好きな回>

【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第六話:ジョージ秋山とカレイの唐揚げ

【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第八話:「ど根性ガエル」吉沢やすみと練馬の焼肉屋

【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第13話:『アストロ球団』中島徳博とゆずごまラーメン

【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第五話:西原理恵子と鶏の唐揚げ

 

 

 

 

 

田中圭一さんの『ペンと箸』の面白さ ①

ぐるなびさんが運営する『みんなのごはん。』という食に関するポータルサイトで連載されている、田中圭一さんの『ペンと箸』がすっごいおもしろい……というか興味深いんですよ!!

 

 

まずコンセプトが面白くて、「著名な親を持った子供」に焦点をあて、その「子供に親の好物を紹介してもらう」という流れになっています。

ここでの著名人とは、マンガ家さん。

そしてその子供さんたちの視点で語られることで、「家庭人としてのあのマンガ家さんはどんな人なのか?」「おうちではどんな感じなのか?」というような好奇心も満たされつつ、大ヒット作家さんたちがとても身近な存在に見えてくる、そんな作品です。

 

020

 

ていうかね、以前から手塚治虫さんや本宮ひろ志さんのタッチを取得されていたのは知っていたけれども、この『ペンと箸』では登場される作家さん・そのお子さん含め大半が、その作家さんのタッチで描かれているというこの技!! この味わい!! 芸達者な感じ!! うう素晴らしい。怖いくらい。

しかしそれよりわたしが感心してしまうのは、なんというか、この作品に対する田中圭一さんの「ポジション」なんですよね。本当のすごさはその芸達者感の方じゃないんです。

若干偏見があるかもしれませんが、インタビュアーによってはインタビュー対象(インタビュー成果)をことさら大きく見せようとするタイプがいるじゃないですか。

たとえばある程度その界隈にとって常識なことについて「へえーすごいですね」とか「エー知りませんでした」とか「嘘みたい」「ホントですか」「そんなことあるんですか」って、とりあえず驚いて見せるタイプ。

それも話術のひとつだとは思うんですが、そういうインタビューって、その界隈を知っている方にしてみると正直シンドイんですよね。そこを盛らなくていいから、もっと切り込んでくれよって。せっかくの機会、せっかくの紙面なのに、盛り上げるのはそこじゃないだろって思うんですよ。

……という点において、田中圭一さんの「マンガ家」としてのポジショニングがとても適切なんだよなあって思うんですけど、これ伝わるように書けてます?

 

020

 

もちろん『ペンと箸』の中で進行役である田中K一さんも驚きますよ。でもそれって、マンガ家としての部分に驚くわけじゃないんです。

手塚治虫さんの回で田中K一さんが驚くのは、「手塚治虫さんが週刊連載をピーク時には10本以上抱えていてその状態でテレビアニメも作っていた」ことではなくて、「週刊連載をピーク時には10本以上抱えていてその状態でテレビアニメも作っていた手塚治虫さんが、それでも家族サービスを欠かさなかった」ことの方に驚いているわけです。

ここがとても重要なんです。

手塚治虫さんの話をするときに、インタビューを受ける側がまずその仕事量の多さという大前提から話をしなければならなかったり、インタビュアーその仕事量の多さに驚いていたりするようでは、限られた時間・限られた誌面で伝えられることが大幅に目減りしてしまう。

そこを、がさっと削って、その前提はセリフとしてフォローしつつも、驚くべき(目立たせるべき)焦点をすごくあわせてある。それが見ていて心地いいんですよね。

 

020

 

ちなみに以前、手塚治虫さんの元アシスタントさん複数名が登場するトークショーにお伺いしたことがあったのですが、こちらがまさに悪い意味での典型で、元アシスタントさん側が前提としてさらっと流そうとしているところにインタビュアーさんが大げさに反応したり食いついたりすることで話題がスライドしていってしまうパターンを延々見続けたことがありましてね。

誰かを褒めるために誰かをくさしちゃいけないですよ……でもお金をとっているショーですらそういう悪手がまかり通っている中で、無料で拝見させていただいているこの作品で正しく焦点があたっているのがほんとうにまぶしい。

そういう意味で、作品に臭みがないんですよ。下拵えがとても上手なの。こちらはそれに気づかずに、さらさらっといただいて、普通に満足して、ああおいしかった……なんだけれど、あとから「同じようなほかの料理」に触れたときに「あっあれってすっごくおいしかったんだわ」って気づく感じ。「あんなにおいしいの、当たり前じゃなかったんだわ」って。

……というわけで、田中圭一さんの『ペンと箸』とてもおすすめなんですが、おすすめポイントがもう一点ありまして、次はそのあたりでも。

【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】最新回からの一覧はこちら

Twitter:はぁとふる売国奴(keiichisennsei

Facebook:http://www.facebook.com/keiichisennsei

 

 

 

 

 

SHORT PEACE 感想 『九十九』で個人的なブレイクスルーがあった瞬間

さてさて『九十九』で個人的に一番膝を打ったところ。

それは男の「きれいだ」っていう言葉のリアリティだったんですね。

 

 

踊る傘、舞う反物、どう控えめに言ったって目の前で怪異が起きているのに、傘や反物自身が「捨てられた」「目をかけてもらえない」モノだとして自棄的になっているというのに、男はそのどちらにも目もくれない。そういう世界観なのだとしても、それにしても怪異に「は」注目しない。

捨てられた傘、しまいこまれた反物を「いいものだ」と言い切るその瞬間は、むしろ嬉しそうですらあるんですよ。

その「きれいだ」っていう一言が、「本当にきれいなんだな!」ってすごくストレートに胸に落ちてくる。

先のエントリでも書きましたように。この瞬間までは、「あーmottainaiかー」って思ってすごく斜に構えて見ていたんですよ。

「mottainai」という思想自体が別に悪いというのではないんでしょうけれども、自分は今の日本人にとって「mottainai」という言葉はいろんな決断を先送りにする都合のいいお題目、もしくはその言葉による物を捨てさせない圧力だと捉えている側面が強くて、全然素直に見れていなかった。

 

020

 

けれど「間違ったmottainai」ではないことが、男の「きれいだ」の一言でわかるんですよ。

正直! 正直この演技がなければ「間違ったmottainaiだと間違ったまま」斜に構えて最後まで観てしまったかもしれないけれど、そんなものを吹き飛ばしてくれるくらい、心からの「きれいだ」なんです。

男の目は、傘のやぶれなんか、反物の流行り廃りなんか見ていない。その傘や反物を捨てた人間が主に見たであろう、破れやくたびれなんかは映っていないも同然なんです。「傘そのもの」「反物そのもの」を見ている。

「きれいだ」って言った方がいいから言ってるんでもなく、ここは「きれいだ」ってセリフだから言ってるんでもなく、本当に心からの「きれいだ」っていうのが、

山寺宏一さんだと知って、

「ドワオ」と思いました。えっなに石川賢的に爆発してんの

 

020

 

そおかあ山寺さんだったかあ!! と思うとあの説得力がわかろうというものです。

そして山寺さんがあそこで男の視点に引き上げてくれたからこそ、『九十九』が愉しめた。

これはこの人ならではだなと思うと、なんかとてつもなく深い深い芸の底を魅せられたようで、ある意味ぞっとすらします。

そしてもう一人「ああー!」と思ったのが、破れた傘と共に出てくる「蛇の目蛙」というクリーチャーが草尾毅さんだったこと。

草尾さんの名前を知ってから次に声を聴くまでにものすごい時間が経っているので、偉そうな物言いになってしまうのを承知で言うならば『マジレンジャー』の「スモーキー」を聞いたときに「こういう演技もされるようになったか!」とすごく驚いたんですね。スモーキーを聞いても草尾さんを連想しなかった。

いや、声優さんって言うのは「いろんな声が出せる」のだけが仕事ではないです。どの役をあてても声は同じだけれど素敵な人っていうのはいっぱいいます。けれどこの連想されなさっぷりが自分の中では結構な驚きだった。

その驚きが残っていたので、形容するとなると「かわいい」なんだけれどもあざといかわいらしさではなくてどちらかというと「きもかわいい」とか「ぶさかわいい」に近い「かわいい」蛙が草尾さんなのは、ものすごい納得だったのです。ハイ。

 

020

 

……身も蓋もないことをいってしまいますと、あれ時代的に江戸時代以前になってくると思うのですが、そのころだと「流行り廃り」で反物を破棄したりなんか絶対してませんけどね!! 着物になって大人にも子供にも、ほつれたら繕って、当て布して、それでもどうしても着られなくなったらおしめになって、それすらだめになったら雑巾になって……っていうのが「当たり前」なのがその時代の常識ですからね……。

ということを知っていると、「ああうん雰囲気とビジュアルを優先したんだネ」っていう気持ちはどうしても少し残ってしまいました。

 

 

 

 

 

RE:CYBORGの視聴直後、ざっくり感想 ★☆☆☆☆


このエントリは視聴直後に身内向けに書き散らかした文章を再構築しています。
いつもよりちょっと乱暴な感想になっておりますのでご注意ください。
(初出:2012年 mixiにて)


うーんと。まあ、まず前提として、わたしは2012年に攻殻シリーズを一気にコンプしたのもあって、神山監督の「攻殻テイスト」に関して一度に大量摂取した自覚はあります。

ですが、それでもあんまりにもなんかなあ。攻殻だなあ。って思ってしまったのと、攻殻風味よりアレもコレもタチが悪いなあ……と思ったこと、なんかを語っておこうと思います。

 

 

キャラに関しては、ブリテンとピュンマの扱いの悪さといい、ギルモア博士人としてどうなのって感じといい(自分がゼロゼロナンバーズだとしても、あのギルモアの元では働きたくない)、お前は本当にジェットなのかという性格の改変といい、フランソワーズのお色気といい、なんだか「あーあ……」っていう感じが強いんですよ。「あーあ、こんなにしちゃったか……」って。

特にジェットとフランソワーズですねえ。

ジェットなんかあれ、完璧に別人ですよね。もともとリーダー気質でもなかったですし、思考的に誰かとぶつかるわけでもなかったですし。ううむ……。

フランソワの無駄なお色気も、おっぱいがいけないとか言う話ではないけれど、元の清純な感じが嫌いじゃなかったので、なんかあんなにムンムンにしないでほしかったなあとか……。せめて下着の色は黒じゃないとよかったなあとか……。

いやいいんですよ黒い下着。それそのものは嫌いじゃないですよ。でもなんかフランソワーズには似合わないなあと思ったの、というか、少年誌ベースの石ノ森女性キャラで黒いレーシィな下着が似合いそうなキャラってちょっとすぐにはピンとこないけど。

まあ、キャラに対する思い入れって言うのは人によって違いますから、「いいじゃんお色気フランソワ」とかその他ご意見があるのは充分わかっています。ただ個人的には、リメイクだからといってキャラクターを大幅に改編してしまうのが好きではなくて……。

 

020

 

イワンは玉川さんの演技も相俟って、かなりよかったです。メインに据えられたキャラの中では唯一の良心!! もうゼロゼロナンバーズはイワンが仕切ればいいと思う。あとはジェロニモの、フィジカルな強さがよくよく前面に出ていたのはかっこよかったです。

でも、個人的には、カラオケのバックで流れるあの場面みたいな、ここはジェロニモじゃなきゃ! ジェロニモ来たああ!! っていうようなシーンとまではいかなかったのが、ちょっともったいないという感じはしました。ほとんど唯一の見せ場ですからそれくらい……!!

……ここ、敵の名前とかがわからないのでなんとも描写しづらいのですが、002と009が岩みたいな大きな敵に踏みつぶされそうになったところにジェロニモが助けに入るシーンがあるんですけれど、敵を破壊したとか投げ飛ばしたとかじゃなくて、普通に体で敵の体重を受け止めて立っているあの感じが、9人にそれぞれ別の能力が備わっているってこういうことだよなあ……!! ってすごく熱くなってしまって大好きなんです。脱線した。

ハインリヒは無難にまとまっているなあ、という感じで可もなく不可もなく。という印象だったのですが、見終わった後はじわじわ気に入ってきました。なんだあの渋さ。それに膝からミサイル出すデザイン残しておいてくれてよかったです!! あれ描写次第ではあまりシリアスにならないかなあと思っていたのですが、とても格好良かった。

そして、張々湖が「アル」喋りに戻ってくれたのも嬉しかったかなあ。わたしとしてはこの「役割語としてのアルヨことば」は差別的だと思っていないので、キャラクター付けとして原作の方に戻っていったのは普通に歓迎です。あ、でも同時に平ゼロの張々湖に対する配慮はとてもよいとも思っていますし、張々湖役である茶風林さんの対応にも頭が下がります。

原作や昭和版アニメでは関西弁的な言葉遣いで語尾に「〜アルヨ」「ヨロシ」などをつける当時の中国人描写にありがちな口調(アルヨことば)だったが、平成版アニメでは同じく関西弁を思わせるものの妙な訛りのある独特な口調に変更されている。従来の差別的とも取られがちな口調を改める際に、張々湖役の声優茶風林は中国語を学び、独自のイントネーションを掴むのに役立てたという。

Wikipedia – サイボーグ009の登場人物より

 

020

 

映像としては、3Dで見ておいてまあ正解だったかなと。綺麗ではありました。ただ、キャラの動きがぬるぬる動いて、MMDを見ているような感覚も……。ジョーとフランソワは特に、モデリングしたものがそのまま動いてるみたいで特に違和感がありました。

加速装置の表現とか、ジェットの飛行形態とかは、いいかどうかはまたおいておいて、表現として面白くはありました。

しかし繰り返しですが、攻殻見てることによる既視感はやはりぬぐえません。フランソワーズの素子落ち、という表現をネットで見たときには「やっぱ思うよね」としか……。個人的には「セーフハウス」という単語を使われた時点でうーん、と思いました。別にセーフハウスは攻殻用語というわけではないですが、攻殻で比較的使われている用語なので、ここで使わなくても、と。

そういう既視感は意識的に避けてもいいくらいなんじゃないのかなあと思ったのですが、どうなのでしょうね。

 

020

 

ストーリーとしては、「その他対ゼロゼロナンバーズ」にはできなかったのかな? というのが強い不満です。だってあのジェット、はっきりいって違う人じゃないですか。なら違う人を導入しちゃいけない理由があったんですか? 現実だか脳内だかわからない幼女とかJKとか無意味に(と言わせていただく)出しておいて、対立するのは違う人っぽいジェット……。

ゼロゼロナンバーズ内で揉め事があるとか、ジョーがリーダーに選ばれて気に入らないから抜けちゃったジェットとか、うーん。そういうのが見たいわけじゃない!! ジェットが、アメリカが正義だと思っているのはまったく構わないんですけど、それなら「彼ら対アメリカ」っていう構図にして「自分の信じてきた正義・アメリカ」が揺らぐジェットとか……そういう描写でもよかったんじゃないかしらって……。

そして結局、彼の声ってなんだったんですかー。天使の化石とかもなんだったんですかー。

あれだけ引っ張っておいてさらっと「フランソワなりの解釈」が述べられただけで終わりなんて、ざっくり言ってしまえば「フランソワとジョーによるセカイ系映画」と言われても仕方なくないですか? 元々の作品だってきちんと終わっていないと言ってしまえばそうなんですが……。

彼の声は神の声? 神の声を聞いて人類をよくしようと思ったらそれは自爆テロをするっていうことなんですか? それはなんてテロリストの危険思想なんです? 007は諜報部員にやられたのはわかったとしてもピュンマはなぜ消えてしまったんですか? なぜジョーは高校生活を繰り返していたのでしょう? あのJKと幼女は?

この「?」の中には作中で説明されているものもありそうですが、なんかもう頭に残らなくて……。

 

020

 

だいたい理解できて、さらにインタビューやその他で「おおーこんな裏が!」「こんな思いが!」っていうのならわかるんですが。観ていてここまでわからなかったものに対して、なんかそこまでしたくないなあと。というかそこまでしないと理解できないものってどうなのと。

二人組で来ていた男性の「風呂敷ひろげすぎて畳めてない」という感想が一番しっくり。

これは本作に限らずいつも(ゲームとかでも)思っていることなんですが、次回作があると思ってやり残しをしているとしたらそれも好きではないし、次回作がないならないでその一本で納めて欲しい。そして今作が次回作予定とかそういうものがなくてこの内容なんだとしたら、どうにかしてるとすら思います。

今回は「スケールが大きい」とかいうより……。うん……。力を注ぐ部分を間違っているように思えました。

話の展開に興味を持たせるために、「不透明な的・用語・現象」をひっぱるのはもちろん手法としてありなんだけれど、それ(彼の声)をたたせようとしたぶん、その他の諸々がハンパになってしまっているかと。

ひっぱったならひっぱったに対する答えはやっぱり用意してほしいなあ。

 

020

 

結構、後半に行くにしたがって009は難しい話になるというか、わけのわからんものになっている部分があるのはわかっているのですが、そこにばっかりフォーカスされたような印象。もうちょっとわかりやすい作品だとよかったなあ、普通に娯楽映画として見たかったなあ……。

あと、他の方のレビューを読んでいて共感した点としてはやはり「9人そろって防護服着るシーンが欲しかった。」という点につきますね。

 

020

 

本当はもっと純粋に楽しみたいとは思っているし、自分の理解力が足りてないだろうというのもわかってるのですが……。でもやはり、どうしてこうなったし、と思ってしまうのはもう仕方ないです。ネット上での反応は見事に二分されている印象がありますが、わたしは「009としてもどうかと思うし娯楽映画としてもどうかと思う」という感じなので、世の中がバンザイ一色ではないことにちょっとほっとしています。

かといって「ハアあれ面白かったって? バカジャナイノ」とは思いませんし。何を求めてどこを見たかでも印象が変わる、そういう意味では懐が広いとも言えるのかもしれません。

まあ、見た結果の感想はどうあれ、大画面で見た方が楽しい映画であることは確かです。でも自分はこの内容だったら新作で借りて差額で高いラーメン食べた方がよかった。

 

020

 

ノベライズ版と、コミックス版が出ているのですね。見た後は全然情報を追わなかったので知りませんでした。ノベライズ版ではいろいろ心理描写なども追加され、映画を補完するものにはなっているそうですが、うんまあ……いっかな別に……。

あと、ここではリンクをはりませんが、RE:CYBORG版のフランソワのおっぱいマウスパッドがあったのにはなんか……ドン引きしました。別になんというか、セイノショウヒンカガーとかジェンダーノナントカカントカガーとかじゃなくて……だってお前……フランソワーズだよ……もっと大事にしたいとおもわないの……? って……。

 

 

 

 

 

 

 

業田良家さんの『自虐の詩』にはあきらかにおすすめ版があってだね

タイトル通りでございます。

マンガ好きにとってはある種の話題作であったように思う『自虐の詩』(※読みはじぎゃくのうた)ですが、映画化にあたって全編収録の愛蔵版が発売されています。

ですが、読むならこれじゃないほうがいいんじゃない……? こっちがおすすめじゃない……? というかむしろおすすめの編集版があるじゃない……!!

というわけでそちらの紹介です。

 

 

あ、こんな序文で始めておきながら、左の画像は愛蔵版です。しかし愛蔵版はファンアイテムというか……うん。作品として読んだときにできる「隙」があるのですよね。

物語の主役は幸江さんという、すっと通った鼻筋とその側にあるホクロが特徴的な女性です。前半は、チンピラで働かないヒモ旦那にひたすら邪険に扱われながらひたすら幸江さんの苦労話。

ここを真面目に受け止めすぎると前半で充分ツラくなってしまうかもしれませんが、まあテンプレ芸くらいの気持ちで読んでいればいいかな……とも……。

その合間合間に、なにもしない旦那(ちゃぶ台返しとギャンブルならやる)とのアパート一間暮らしの様子が描かれていきます。

幸江さんはそれでもそんな旦那を愛していて、ことあるごとに「愛してると言って」とねだるのですが、これは作中一度もかなうことはありません。むしろ壁の薄いアパートで、となりの大家さんに聞かれてその都度笑われるレベル。

正直、これずっとこんな感じなのかなぁずっとこれ見せられててなんなんだろうなあこれが上下巻あるのか……これが……? こういう芸か……? と思いながら読んでいたのですが、後半様相が変わって参ります。

幸江さんも旦那も昔は羽振りがよく、水商売の女とヤクザ(?)として出会っているのですが、さらにそれ以前の幸江さんの過去が語られていきます。

この過去をここで語ってしまうのはあまりに無粋なので、あらすじの説明はしないんですけれど、この過去からの一連の流れが……つらい、つらいの連続のような、どこか遠くの話すぎるような、でもわかってしまうような、また業田良家さんの絵柄故の淡々としているようなそれでも客観的になりすぎるのを許してくれない感じが……。とにかく引き込まれますというより、どちらかといえば巻き込まれます。

そしてそして最後に、この幸江さんの人生というのはなんだったのか、生まれてくるとかそういうことってなんなのか……という大きな総括がきてこの話は終わるわけです。

正直、そのラストにあまりに大きな話がきちゃったなあという感じはありますが、その前のね。クライマックスがあまりにも……!!

 

020

 

で、今まで「おすすめの版」じゃなくて「自虐の詩のおすすめ」になってしまっておりますが、話を戻しますとおすすめはむしろこちら。

 

 

この文庫本サイズの編集版。これが絶妙なのです。じゃあなぜそれに気がついたか? というと。

先に述べたように、この文庫版は「未掲載」の話も結構あります。ですが、それがいいんです。それこそがいい。

文庫版は、幸江さんのつらさが積み重なって、それでも幸江さんにとっては、必死に働く理由になる旦那さんがいて、少なくとも幸江さんは旦那のことが大好きです。それだけ。一方的だけど、それだけ。

ラストで幸江さんが自分の人生に答えを見つける展開を知らなくても、この幸江さんの人生ってなんなんだろう、そういう疑問が読者側に湧きかねないくらい。

だからこそ後半のクライマックスが生きてくる。ラストのモノローグが生きてくる、わけです。

じゃあ愛蔵版はどうなのか、というと。エピソードが多い分、「ああなんだ、幸江さん結構幸せだな」って、見てるとわかっちゃうんですよね。

 

020

 

だからといって、予定調和に感じてしまうほど後半の展開はやさしくはないんですが、でも「幸江さんなんなの……大丈夫なのこの人……」と思いながら読んでいてあのラストに突入するのと、「アッ幸江さん案外大丈夫そうだな」って思ってあのラストに突入するのって、衝撃とか読後感がかなり違うんです。

……というわけで、個人的に『自虐の詩』は文庫版で読むのがおすすめ。あと、今後『自虐の詩』についてふれることはそうそうないと思うので、もうひとつ個人的なことをついでに言ってしまうと、

映画版『自虐の詩』のビジュアルを見たときに「アッ仮面ライダーZXっていうか村雨良」って思いました。わかるひとだけわかっていただければと思います。

 

 

 

 

 

妙に気になってしまったマンガのココ②-『無敵のビーナス』より女性の甲子園出場


さて先に述べました、女子による高校野球マンガ『無敵のビーナス』ですが、これを読んでいてすっごくすっごく気になるのが、

「……なぜ女子が、男子にまざって野球をやらなければならないのか?」

という、そもそものところです。

そういうテーマのマンガだから!! と言ってしまえばそれまでなんですが、ではなぜそういうテーマが成り立ってしまうのか、そもそもそこからが若干不思議なんです。

 

 

この「女子が甲子園に出る」という話題については、どちらかというと「女子が甲子園に出られない」というのは当たり前のことだと思っているので、なんというかテーマとして捉えにくいんですよね。

だって野球に限らず、男女が同じフィールドで戦うスポーツなんてほとんどないじゃないですか。テニスならミクスドがありますけど、あれだって決して男性ふたりVS女性ふたりという構図にはならない。体格、体力、その他もろもろの差がある男女の活躍するフィールドが分けられているのって、むしろ当然のことに近い。

ですから、この話題で嘆くときは「なぜ女子には野球文化がないのか、どうして強制的にソフトボールになってしまうのか」というところであり、「なぜ女子だと言うだけで甲子園に出場できないのか」ではないと思うんです。

 

020

 

そういうマンガがおもしろいかどうかは別として、自分としては、このテーマを掘り下げるなら「女子の野球人口を増やそう!!」であり、「女子版甲子園をつくろう!!」……じゃないとヘンじゃないのかな、と思ってしまうわけですね。

……あまり同意を得ようとは思っていませんけれど。

女子が野球で活躍できる場所がない!! → だからすでにある男子の甲子園にまざりこもう!! ではない建設性っていうのが、あってもいいんじゃないかなー……と思います。マンガでなら。

 

020

 

その場合必要なのが、逆に「なぜソフトボールではいけないのか」という部分への理由付けと、「どうして野球にこだわるのか」の部分への理由付けなのかなとも思います。

ここが「今は亡き誰それとの約束だから」とかだと、それで「女子版甲子園を作ろう!!」という動機付けにはなっても、大人の組織は動いてくれそうもないですし。

主人公に同意してくれる人はいるにしても、あくまでそれは個人的な感情だから、規模がそんなに発展してくれなさそうなんですよね。

って、いつのまにかマンガのネタづくりの話みたいになっちゃっていますが、そういう意味では「野球好きの女の子が甲子園に出られない」っていう流れは、ちょっと一回誰か見直してくれてもいいんじゃないかなーと。

 

020

 

そんな風に思っているので、丸ごと女子リーグならともかく、女子の参加する甲子園、というものに対しては、ちょっぴり点が辛くなってしまう、のでした。

(もちろん、単純に「わたしはそこが気になる」という部分であって、作品そのものや、そういう設定を楽しんでいる方にどうこう申す意図はございませんので、そこはご理解のうえお読みいただけるとありがたく思います。)

 

 

 

 

 

妙に気になってしまったマンガのココ①-『ドカベン』より弁慶高校戦での落球


いきなり水島マンガからで恐縮なのですが、タイトル通りのシリーズです。

作品を読んでいて、それが主題じゃないだろうに、妙に気になってしまったところ。今回は『ドカベン』にて、岩鬼がわざと落球するシーンについて。

あれねえ……初見の時から今までずーっと、ずーっと気になっちゃってるんですよね……。

一応理由はあって、岩鬼が関西弁をしゃべる理由でもある、子供の頃一番なついていたお手伝いさんの命を、弁慶高校の生徒の不思議な力で救ってもらった、っていう流れではあるんですけれど。

岩鬼だったら、そこに意気を感じたら、むしろ全力で戦うことこそが恩返しである、的な考え方が!! できるタイプの人間だと!! 思うので!!

あそこで、自分の恩人の命を助けてくれた大恩人のために自分がミスをしよう、と思ってしまうのが、なんだかすっごく岩鬼らしくないなーと思って、今に至ります。

 

 

ちなみにこういう「手を抜かないことこそが最大の敬意だ」という表現に関しては、『無敵のビーナス』という女子野球マンガにひとつの理想があります。

読んだのがだいぶ前なので、失礼ながらもうキャラクターの名前などは忘れてしまっているのですが……。

ストイックに野球に打ち込み、遊びに興味を示さない真面目な選手に対して、野球も好きだけれど少し軽いところもあって、学生らしくまだまだ遊んだりもしたい選手がちょっと反発してつらく当たってしまうんですね。

けれども、そんな日々が続いているうちにそのストイック選手が都合で転校しなければならなくなる。この気まずいまま物別れになってしまうのか……という展開の後、この二人は甲子園で再会するのですが。

 

ストイック選手の打球を見事にキャッチする遊びたい選手。二人が一瞬交わす笑顔。

……このシーン、すごくかっこいいと思うんですよ。

 

え、岩鬼もこれでよかったんじゃないの。

むしろこういうのが岩鬼じゃないの。

と思ってしまって、ええと10代の最後の頃からずーっと、なんだかこの2作品の、それぞれのシーンが印象に残っていて今にいたります。

 

020

 

ちなみに、じゃあこの『無敵のビーナス』が理想の野球マンガかというと、まったくそんなことはないんですけどね。

そもそも「なぜ女子が男子に混ざって野球をやりたがるのか」というところの動機付けが希薄ですし、「努力しているとはいえ、なぜ女子が男子の中で勝ち抜いていけるのか」というところの描写も希薄ですし、そこまでして女の子に男子の中で野球をやらせたのに、ラストは放置気味だったラブ路線の回収で唐突ですし。

それでも、この二人の交わす微笑みだけは、今でも「いいシーンだったな」と思い出すんです。

オチがつかなかった!!

 

020

 

自己弁護的かもしれませんが、こうして洗い出していく行為について、わたしが気づいている意義、みたいなこともそのうちまとめられたらなあと思っています。

 

 

それは電話してまで聞くことなのか、そして今電話することなのか (※昔のサンマガコミックスがひどい話)

先日生まれて実に何回目かの誕生日を優雅に過ごすために銀座でお泊りしてきたのですが、夕飯と軽い飲酒を済ませたくらいの時間に友人から電話が。

おうなんだろう、一応平日だけど緊急かな、と思ってかけなおしたら、

「君のblogを読んだんだが、おいら女蛮とカーチャンの話について書くと言って書いてないじゃないか!!  続きはどこにあるんだ!!」という電話でした。

お、おう。

 

 

もともと、先日の「カーチャンのここが好き」系の話題についてもこの友人からの話だったので、「まああのあたりの話だよー」ということで話をしていたのだけれど、「当時のサンデーコミックスは本当にひどくて、『おいら女蛮』に限らずああいうページ削りは本当に多い」という情報を得ました。

ちなみに今の人にはわからない話題だろうなあと思うので一応書いておきますと、昔はコミックスに収録して販売するというビジネススタイルが確立しておらず、雑誌に載ったらそれでおしまいの本当に一期一会なのがマンガ雑誌というものでした。

……うん、ピンと来ないよね、でもそういう感じだったんですよ!! と言いつつ自分も情報として知っているだけで、ピンとまでは来ない世代ですが。

 

020

 

だからこそ、当時は「コミックスへの再編集化」にそこまで力が入っておらず。そういう時代に適当に出したのを原本にして今でも出し続けているって本当になんなんでしょうねえ……。

というような真面目なオタ会話を、銀座の交差点周辺で繰り広げておりました。

どこにいった、優雅。

 

020

 

ちなみに「マガジンはもっとひどかった」というのでそのまま話を聞いてみましたところ、

「当時の雑誌広告などが入っていたスペースに、同じマンガのまったくつながらないコマを切り張りして持ってきている。」とのこと。

具体例としては、「たとえば『1・2の三四郎』で、どう見ても三四郎たちが運ばれているだろう救急車のシーンのあとに、その三四郎たちが笑っているコマがいきなり挿入されている。なので、自分が誤読して、これは三四郎たちではなく相手の外人レスラーが運ばれたのだろうか、と思って続きを読むと、やっぱり三四郎たちが入院している。」という……。

あっそれひでーな!!

 

020

 

こういう流れで、例えば『クイーン・エメラルダス』なんかでも、シリアスなシーンに急に関係ない普段の間抜けなコマが挟まったりとかしていて台無しだ、という話を聞いたり、いや、それでも『デビルマン』は連載当時、最後のページの1/4が次回予告だったから今コミックスになっているのは全部その1/4にどこかのコマをあてているんだが、さすがに違和感がないな、いやあるな!!  ほかのページのコマを持ってきているから背景の斜線がうまくつながっていなかったり、急に太ったりしているぞ!! という話を、同じく銀座の交差点あたりでずっと聞いていました。寒い!! おもしろいけど、寒い!!

 

020

 

正直この友人はこういう話の宝庫で、この人がblogやったりするほうがずっと興味深い話になりそうだと思うのだけれど、自分の方からはなかなか出さないんですよね。こちらが勘違いしていたり当時を知らなかったりすると、そこでスイッチが入ってたくさん喋ってくれるのですけれど……。

とにかく「昔のサンデーコミックスは、コミックスのページに合わせるために、結構ムチャなページ落とし(雑誌掲載時からの削減)をやっている」&「昔のマガジンコミックスは、雑誌掲載時に広告などがあった下1/4のスペースに、本当に適当なコマを切り張りしている」という情報を、当時コミックスが出るまで掲載誌を捨てずに見比べていた、本物のマニア少年からいただきました。

非常におもしろかったし興味深かったですが、今日くらいは、ウソでも優雅でいたかったな、とも思いましたとさ!!

 

020

 

<おまけの閑話>
しかしこの友人がおそらく本気で一番怒っているのは『マカロニほうれん荘』だと思います。未収録の多さもそうなんですが、コミックスに収録する際に、当時のカラーや2色のページの色を飛ばして疑似的に白黒にしているために、線が掠れていたり、画面がスカスカになってしまっているのが多数ある、ということで。

途中で何回か復刻されたものも、妙に差別表現に対して過剰になっていて、無駄に修正されていたりするので、これはわたしもいつか、完全復刻版みたいなものを拝みたく思っています。

 

 

 

 

 

 

 

『おいら女蛮』とカーチャンの話から松本零士系理想の女の話、の話

ええと。わたくしおいら女蛮のカーチャンって、すごく理想の女性像じゃないかなーと思っているところがあります。

ギャンブルで家計を支えているってところじゃないです。

 

 

けっこう大きな子供がいるのに、トーチャンへの愛情が衰えず、アピールも忘れず、女性でいるための努力も怠らず。そしてなにより、息子のエロ心にも大変おおらかである、というような点が、です。

いや、別に理想として掲げてるわけでもないんですけど。ああなりたい、とかでもないんですけど。でもすごくかわいらしい女性だと思うんですよね。

というような話をすると、「女性がカーチャンをそういうふうに称してくれるのって、珍しいですねえ」と言われたりもします。(この言い方だと、まるでダイナミックプロの方に言っていただいたみたいですけど違います。)

と、いうときに「いや、松本零士が、ただでSEXさせてくれる女性のことをやたらと”理想の女性”って言いたがるのに比べたら、女としてよっぽどカーチャンのが理想的よ?」と答えるのがある種のパターンと化しています。

これ、単なる友達との会話なので、双方がなんかの代表みたいな口のききかたしている点についてはご容赦くださいね。

 

020

 

……そして、この書き方だとなんというか「永井age↑松本sage↓」のように感じられるかもしれませんが、わたくし普段は両方とも好きですし、むしろやや松本よりですらあるんですけど。

いっつも”このへん”だけが気になるんですよ。

いやね、筆おろし体験後、別に彼女ができるわけでもなく、定期的にお相手していただいてる足立さんが「ジュンさんは理想の女性」って言うだけなら別にかまわないんですよー。個人の感想ですから!!

でも、人生経験の豊かな大家さんやマーちゃんとかにも言わせるでしょ。『大四畳半』だけじゃなくても、こういうパターンそこそこあるし。

 

020

 

ま、ジュンさん好きですよ。いい女だとは思いますよ。男に恥をかかせないように体を開ける女性、意気に感じた時は体で答える女性。いいと思いますよ。

でもそれは、決して “理想の女性” ではないだろう、と、毎度毎度このテの描写が来るたびに、思ってしまいますのです。

こういう女がいてもいいし、ある点ではとてもいい女だとは思っていますけど。

だって、いざという最後の時には、選ばないでしょう。

……なんて、考えなくていいところまで、掘り下げてしまうのがいけないのかもしれませんね。13ページしかないマンガで5ページにわたって「キンタマー」って叫んでるだけの作品すら気にならないのに、これだけは、どうにも、気になってしまうのでした。

 

020

 

大草原の小さな四畳半(デジタルコンテンツ)

そして13ページ中5ページ「キンタマー」って叫んでる作品にリンク貼ろうとしたらAmazonさんでもなかった。ザンネン

と思ってたら電子書籍であった!! ヤッターまさかの!!

あっでも別にこれ面白いわけじゃありませんので!! 別におすすめはしていない!!