攻殻S.A.C. TVシリーズと劇場版見比べると目立ってしまうアレの扱いについて

以前『攻殻機動隊』について触れた時に、「その再編集に伴いタチコマの出番が大幅に減ってしまった関係で、一部の物語が「ただの展開」になってしまってもったいないんですよねえ。これ、初見の時からずうっと思っていることなんで、ちょっとのちほどネタバレも含めて別枠で述べたいと思いますが」とか言ってたくせに、自分のいつになるやらというツッコミの通り放置しておりました!! しずこ ( @cigarillolover ) です!!

 

 

実は攻殻S.A.C.の劇場版は、最初の攻殻とイノセンスを見た直後に一度見ているのです。でも話が全然分からなかったので、「これは本編見てるのが前提なのかな?」と思って理解するのを諦めて、しばらく攻殻そのものから離れていたのですけれど。

改めて本編を見終ってから、もう一度映画版を見て、「はいはい、話が難しいから理解できてなかったのね」と気が付きました。自分のアタマの問題だった!! そしてTV版のスパンでゆっくり見ていった関係で、お話が理解できたうえで見れば、すごいクオリティだということに改めて気が付きました。

ただですね。監督さんは、「斜に構えた感じの作品にはしたくない。舞台装置の関係上、どうしたってそうなるのだから、脚本は演歌なくらいでいい。人間臭さを出したい。」というようなことを仰っていましたが、映画版は、その「演歌」な感じが尺の関係で削れてしまっていて、いわゆる攻殻のイメージになってしまっているのが、本編まで見た後だと寂しいんですよ!! スッゴクもったいない!!!

もちろん「笑い男」の話だけ見たい、という場合はそれでも構わないんですが、そうだとあまりにも世界観とかいろいろ統一されすぎてしまっていて、カチカチなんですよね……。あとはこれまた尺の関係で、専門用語の前後が削れて「は? 急に出てきたソレは何?」という風になってしまうところもあったり、ただでさえ難しい話なのにそういう無用な混乱を呼んでしまうのももったいないなと……。そういうところもセリフ変えてよかったのではと思います。

 

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【ここから本質的ネタバレ】

TVシリーズでは「タチコマの急成長」「ロボットに魂は宿るのか」(作品世界風に言うと「A.I.がゴーストを持つのか?」ですね。) というのが、笑い男の他に大きな軸としてあって、これがすごく興味深いんですよ。そしてこれのおかげで「終盤のある展開」にものすごい厚みが出てくる。

一日の最期には記憶を並列化され、無個性になるはずのタチコマが、持つはずのない個性を持ち始める。けれどこのタチコマの個性を「兵器としては危険」と見た素子は、タチコマの使用を中止して、ラボに送ってしまうわけです。そしてこの個性を得ていく過程が、くどくなく、じりじりと描かれているからこそ、タチコマがラボ送りになって荒れるバトーの気持ちもよくわかるんです。

そして、大前提としてA.I.にはゴーストがないので、タチコマにとっては「死」がそもそもの憧れなんですよね。よく「ぼくは死ねないから」っていう言葉が出てくる。さらに言うと、あるシーンでは「そっか、みんな死を体験できたんだ」という言葉すらある。それが、ラストのあたりで「死にはそんなに期待していないの」という素子のセリフと対になっていたりして、シリーズとしての力強さを増しているわけです。

さらには作中で「もっと戦闘したいよー!」とか、飼い主のいない犬を廃棄物のように扱って「だってあれはいらない犬なんでしょう?」と子供に対して言ってしまうというような、<知らないが故の無垢>と<その怖さ>までもを体現している。

だからこそ素子のように「こいつらは危険だ」と思うのもわかるし、バトーのように「こいつらかわいいな」というのもわかる、どっちもわかるバランスでタチコマが扱われているわけです。

 

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でも、映画版になると、そのタチコマの成長(と敢えて言わせてもらう)はバッサリカットで、「スタンドアローンコンプレックス」の定義づけ要因以下にまで落ちてる。

タチコマのA.I.の成長は、「笑い男事件の拡散についてシミュレーションするのに好都合」みたいな感じで、最初から成長しているのが前提で、あっさりラボに送られているわけです。

TVシリーズでは、タチコマは経験や思考によって生まれ始めた個性を持ったがゆえに、ラボで解体されるということはまぎれもなく「個体の死」なわけです。大量生産で、どのタチコマも同じタチコマというわけではない。個性を得た「その」タチコマが解体されれば、「その」タチコマは二度と生まれない。だというのに、映画版だと尺の都合上、ラボで解体されたことに対してもなんてことない風にされてるんですよネ……。それに対して残されたタチコマがなにかを思う余地すら与えられていない……。

ラボで解体されてしまったことを「そっか、みんな死を体験できたんだ」ととらえ、個体の解体が死だと理解している生き残ったタチコマたちですらその命をバトーのために使う、から、泣けるんじゃないか!! 「タチコマが、交換のきかない命を使ってもバトーを助け、そして死ぬことができた」という大きなテーマの大前提が映画版ではまったくないのに、とりあえずタチコマが命を使ってバトーを助けたとしても「機械のはずのタチコマがなんかご都合主義的に天さーん(爆死)」おいっ! お前チャオズかよ!! みたいになってしまって本当にもったいないのですよ!!

つまり「タチコマは生きてるんですか?」という質問文がない状態で、「バトーさんのために死にました!」って答えだけを挿入されても、違和感しか残らんと言うわけだ。惜しい……!!悔しい……!!

すごい勝手なことを言ってしまえば、映画版に合わせて「タチコマの魂の話」をぶったぎってしまうなら、あのバトーさんのピンチシーンの脱出方法もあわせて変えてほしかったぐらいですよ……。前提条件が変わってしまっているから、ものすごく安っぽく見えてしまうんですよ……もったいない……(床ドン)!!

 

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このタチコマの成長は、なんといってもタチコマ役の玉川砂記子さんの功績が大きいですよね……。DVDに収められているコメンタリーでさらっと「タチコマが今後どうなるのか監督に教えてもらえなかったので、これでいいのかと思いながら演じていた」とおっしゃっていたのですが、その状態であの芝居か……スゲエ……!! って正直震えましたわ……!!

バトーさんを助ける際の、「あいつをやっつけて戻ってくるから、それまで待っててね」っていう一言もですね、「待っててね」の「ね」がいいんですよね、待ってね! じゃなくて、 待っててねぇ ってちょっと語尾が柔らかくて、子供に言い聞かせてるみたいなんですよね、そのあたりのバランスが可愛いし泣けるし、バトーさんが苦戦するような相手に当たり前に勝ってくると判断するあたり、やっぱり兵器だなとも思うし。ウワーってなります、あと『タチコマな日々』で「A.I.戦隊タチコマンズ」っていう歌のがあるんですがそれがかわいすぎて、思わず携帯構えて録音しましたからね!!

 

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まあ、あれだけの情報量を全部詰め込んだら今度は「わけわかんねー!」ってなる危険性が高まりますし、そこはね、削るしかなかったとは思うんですが、それなら他の部分、そこまでテレビシリーズ準拠にしてしまわなくても……って、労力とかその他の観点をふっとばしてそう思ってしまうわけです……。

でも見直すと、第一話と最終話のバトーが同じ登場シーンだったりとか、途中のトグサの「ここで戦うと絵に傷がつく」とか、さっきの素子とタチコマのセリフの対比とか、絡みに絡んだ事件の真相がやっと自分でも理解できるとか(涙)いろんな点で奥が深くて、でも、小手先で小難しいのではなくて、これも監督が仰っていたように「ただ楽しく、見ていて楽しいものを」というのが本当に実践されていて、DVDを借りても借りても次が見たい! という稀有な作品でした。

衣谷遊さんが担当されている攻殻機動隊のコミカライズでは、現在この「笑い男事件」を扱っているのですが、より描写が細かくなって理解が深まりますのでそちらもおすすめです。

 

 

 

 

 

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