SHORT PEACE 感想 『九十九』で個人的なブレイクスルーがあった瞬間

さてさて『九十九』で個人的に一番膝を打ったところ。

それは男の「きれいだ」っていう言葉のリアリティだったんですね。

 

 

踊る傘、舞う反物、どう控えめに言ったって目の前で怪異が起きているのに、傘や反物自身が「捨てられた」「目をかけてもらえない」モノだとして自棄的になっているというのに、男はそのどちらにも目もくれない。そういう世界観なのだとしても、それにしても怪異に「は」注目しない。

捨てられた傘、しまいこまれた反物を「いいものだ」と言い切るその瞬間は、むしろ嬉しそうですらあるんですよ。

その「きれいだ」っていう一言が、「本当にきれいなんだな!」ってすごくストレートに胸に落ちてくる。

先のエントリでも書きましたように。この瞬間までは、「あーmottainaiかー」って思ってすごく斜に構えて見ていたんですよ。

「mottainai」という思想自体が別に悪いというのではないんでしょうけれども、自分は今の日本人にとって「mottainai」という言葉はいろんな決断を先送りにする都合のいいお題目、もしくはその言葉による物を捨てさせない圧力だと捉えている側面が強くて、全然素直に見れていなかった。

 

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けれど「間違ったmottainai」ではないことが、男の「きれいだ」の一言でわかるんですよ。

正直! 正直この演技がなければ「間違ったmottainaiだと間違ったまま」斜に構えて最後まで観てしまったかもしれないけれど、そんなものを吹き飛ばしてくれるくらい、心からの「きれいだ」なんです。

男の目は、傘のやぶれなんか、反物の流行り廃りなんか見ていない。その傘や反物を捨てた人間が主に見たであろう、破れやくたびれなんかは映っていないも同然なんです。「傘そのもの」「反物そのもの」を見ている。

「きれいだ」って言った方がいいから言ってるんでもなく、ここは「きれいだ」ってセリフだから言ってるんでもなく、本当に心からの「きれいだ」っていうのが、

山寺宏一さんだと知って、

「ドワオ」と思いました。えっなに石川賢的に爆発してんの

 

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そおかあ山寺さんだったかあ!! と思うとあの説得力がわかろうというものです。

そして山寺さんがあそこで男の視点に引き上げてくれたからこそ、『九十九』が愉しめた。

これはこの人ならではだなと思うと、なんかとてつもなく深い深い芸の底を魅せられたようで、ある意味ぞっとすらします。

そしてもう一人「ああー!」と思ったのが、破れた傘と共に出てくる「蛇の目蛙」というクリーチャーが草尾毅さんだったこと。

草尾さんの名前を知ってから次に声を聴くまでにものすごい時間が経っているので、偉そうな物言いになってしまうのを承知で言うならば『マジレンジャー』の「スモーキー」を聞いたときに「こういう演技もされるようになったか!」とすごく驚いたんですね。スモーキーを聞いても草尾さんを連想しなかった。

いや、声優さんって言うのは「いろんな声が出せる」のだけが仕事ではないです。どの役をあてても声は同じだけれど素敵な人っていうのはいっぱいいます。けれどこの連想されなさっぷりが自分の中では結構な驚きだった。

その驚きが残っていたので、形容するとなると「かわいい」なんだけれどもあざといかわいらしさではなくてどちらかというと「きもかわいい」とか「ぶさかわいい」に近い「かわいい」蛙が草尾さんなのは、ものすごい納得だったのです。ハイ。

 

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……身も蓋もないことをいってしまいますと、あれ時代的に江戸時代以前になってくると思うのですが、そのころだと「流行り廃り」で反物を破棄したりなんか絶対してませんけどね!! 着物になって大人にも子供にも、ほつれたら繕って、当て布して、それでもどうしても着られなくなったらおしめになって、それすらだめになったら雑巾になって……っていうのが「当たり前」なのがその時代の常識ですからね……。

ということを知っていると、「ああうん雰囲気とビジュアルを優先したんだネ」っていう気持ちはどうしても少し残ってしまいました。

 

 

 

 

 

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