映画『フォックスキャッチャー』のいたたまれなさは日本人向けかも②

はい、昨日映画そのものについて紹介していたら通常エントリと同じくらいの量になって「分割じゃー」ってなったので今日は②です。わああたまわるいぶんしょう!!

いっつも思うんですけれど、映画とか書籍とか紹介するときって「こういう映画ですこういう書籍です」っていうのはどれくらい必要なんでしょうね? 個人的に「自分が見たものの感想を探す派」なので、前提条件とかはあまりなくても平気なんですが、自分が見たことのない作品について(どんな作品かも特にわからず)感想を先に読むという楽しみ方もあるのでしょうか……むう……グゥ……(寝た)

 

 

 

あくまで映画『フォックスキャッチャー』から見る依存関係

はい、昨日のエントリでも書いたのですが、個人的に感じているこの作品のすごさは「徐々に狂っていくデュポン氏」ばかりではなく、そもそも「承認欲求と依存の負のスパイラル」がおどろくほどがっちりはまっている点にあるんですね。そして、そのスパイラルに入る必要がなかった、強くて健全な人間が最後に殺されてしまう。その組み立てが実に巧みなんです。

まず「母に認められたいけれど方法がまちがいまくっている御曹司」の存在であるところの、デュポン氏。

母は馬や乗馬が好きで、レスリングなんていうものは「野蛮だし目に入れたくもない物」でしかありません。作中でも「そんな(※レスリングなどをしている)あなたを見たくない」とまではっきり言っています。ただ、レスリングが極端に嫌いというより、単純に馬に重きを置いているようにも見えます。大量にある各種トロフィーも「馬関係のトロフィーとその他」にわけてありますし。

だからこそデュポン氏は、母親に認められたいなら馬で認められる方向でがんばることができればよかったのかもしれない。けれども「母親からすれば馬より優先順位が低いどころかその価値がよくわからないレスリング」で認められようとする。しかも「自分が競技者として認められたいという若者」ではなく、「財力によって集めてスポンサードした若者が結果を残したら自分が認められるのではないか」っていう、どうしてそこに希望をかけちゃったの……? っていうズレ具合。

ちなみにあまり繰り返しはしませんが、実際のデュポン氏の実力についてはくわしくは存じ上げません。作中だとこう見えるということね。


デュポン氏はやたらと「国のために」というようなことを言いますが、それはあくまで序盤に置いてのみです。その信念がゼロだったかどうかについては断定できませんが、後半ではまったく口にしなくなります。どちらかというと「国のためと言えば道理が通るだろう」という「説得術」として使っていたようにも見えますね。

のちのち、自分が取ったトロフィーを母親に押し付けて褒めてもらおうとするシーンでも「国のため」的なことを口にしますが、母親はそれが「説得術としての詭弁」であることを見抜いていたように見えます。作中で描かれている母は、出番こそ少ないですが、自身が「富豪である」ということを強烈に理解して生きている人物のように見て取れました。

こういう母親にしてみれば、デュポン家の嫡男がいつ見てもレスリングチームのジャージで過ごしているのもいやだったろうなあ。


とにかく、まず大前提としてこのデュポン家母子のわかりあえなさが根底にあり、デュポン氏はそれなりの年齢(作中で名言はされませんが、彼が50代のころの出来事)であるにも関わらず、母親への承認欲求が強すぎる感じ。そしてその承認欲求を母に満たしてもらうがために、フォックスキャッチャー近辺のことを利用し、対外的な理由づけとして「国のため」と言っているように見えます。

 

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そしてそこに、「兄の栄光の陰に隠れて世間には冷遇されているけれど、兄の庇護下にいる弟」がデュポン氏を次の依存対象として渡り歩いてくる。

この弟が、もう少しメンタルが強いキャラクターに設定されていたらこの話は成立しません。お金と指導者風を吹かせること、つまり「おそらくデュポン氏の今までのやりかた」でマウンティングが成功してしまうのが、次の悲劇へのステップなので。

弟はその「世間に認めてもらいたい」という承認欲求を持ってくすぶっていたところに対して、「生活も見てやるしレスリング環境も住環境も整えてやるし俺はお前のことを認めているぞ」という権力者が現れたことによって、そこの欲求はある程度満たされるんですよね。その代り、とても依存する。

篤志家による援助なわけですから、なにも人生を受け渡す必要はないわけで、基本的に求められたこと、この場合なら「レスリングで成功すること」で返せばいい。けれども弟の方は「自分の人生」で答えようとしているように見えます。

デュポン氏に渡された原稿のままに数百人の前で彼を褒め称え、言われるがままにコカインに手をだし、「君がはじめての友達だ」と言われて喜んでしまう。

いや、理解はできるし、気持ちもわかるし、この弟が愚かだとか言いたいわけではありません。

ただ、もうちょっと冷静で、「昔友人だと思っていた少年に母がお金を渡すところを見てしまった。彼は金で雇われた友人だったんだ」と言われて「いやそれ俺と何が違うんや」って思えるようなタイプだったら……。いや、そしたら全然違うキャラクターになっちゃうんですが……。

とにかくこの映画の中での弟は、依存先を渡り歩いている感じなんですよね。けれど、兄もデュポン氏も弟を一番にはしない。兄もデュポン氏も、自分と自分の家族が一番なわけで、その中でひたすら翻弄されているという。とてもかわいそうな感じになっています。


そして、作中の彼のようなタイプは、指導者ぶりたがる人間ととっても相性がいい。相性がよかったことがまず第一の悲劇ではないでしょうか。

それはデュポン氏がレスラー個人を私物化することに拍車をかけたろうと想像できますし、そのような対応をするデュポン氏と次に述べる個人主義者の兄はそれはそれはソリがあわないだろうと思えるわけです。

 

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「承認欲求の強い御曹司」と「年長者に依存ぎみの弟」の、一度できあがって破綻した関係の中に入ってくるのが「個人主義者で案外自分第一な兄」です。致命的!!

作中のデュポン氏や弟と比較すると、常識人に見える兄なんですけれども、見ていると「承認欲求も強くないし他人にも依存しないのでこのスパイラルには入り込まない」だけであって、常識人とはまた違う感じなのかな~……と思っています。

 

ていうかね、この兄弟のどっちかが日本人だったらこの事件起きなかったよ!! 言ってることむちゃくちゃでごめん!!

 

いや、うーん、金メダルをとってる弟が、次のオリンピックを目指しているのがわかっていて、そのコーチを買って出ている……まあ弟とちがって食べて行けているぶん、弟専属ではないだろうけれど……そういう状態で、弟にとても恵まれた条件のスポンサーがついてくれた……という状況で「自分はいかない、子供を転校させたくないし妻も今の生活が幸せだって言ってるし」の一言でノータイムで断っちゃうのって……どうなのかな……って。

だけど次に、弟が精神的にまいりきっちゃって「ここを離れたい」って言うときには「自分は家族を大事にしたいからここを離れない」ってノータイムで断っちゃうし。

いやもちろん、兄弟だってそれぞれ別の生活があるのは当然ですよ。特に兄は結婚しているんだから別世帯ですよ、わかります。でもなんかこの……「お前行くの? 俺行かね!!」からの「お前帰んの? 俺帰らね!!」がね、なんか……なんか妙に感じるんですよ、あと「この弟」にはその対応だめなんじゃないかな、というのも思うんですよ……。

なんというかね、この兄の、自分の言いたいことだけ言って、あとは弟の目を見て小刻みにウンウンウンウン!! って頷くだけ、もしくはプルプルプルプル!! って首を振るだけっていうコミュニケーションの取り方、すっごいイラッとするんですよ!!

喋れ!!


んまあ、弟とは別世帯ということを考えたら「行かね!! 帰らね!!」はご自由にどうぞなんですけど、それにしたってもうちょっと相手によりそうポーズは取れないのかなーって思うんです。弟に対してだけじゃなくても。

作中、弟が富豪を紹介しに自分たちのホテルの部屋に尋ねてきたときも、子供とじゃれあいながら「ハーイ」だし、フォックスキャッチャーに移動した後、日曜日にデュポン氏が訪ねてきても「今日は日曜日だから家族サービスの日だ。休業日。Sunday。」みたいな対応だし。

いや、うん、もうちょっとなんていうか……もうちょっと……うん……。

「弟・マークのコントロールが成功した富豪」にしてみれば、こういう「尊重するポーズ」すら取らない相手に対して、そりゃ思うところがあるだろうな……と感じます。

 

つまりこういうスパイラルかな、と

「母に認められたいけれど方法がまちがいまくっている御曹司」が「兄の栄光の陰に隠れて世間には冷遇されているけれど、兄の庇護下にいる弟」をお金の力で手に入れ、自分を信奉させて悦に入っていたが、思ったように母親には認めてもらえなかったので、(せっかく自分のものにした)弟にやつあたりして冷遇した。

それによって、「兄の影響力から離れて自立しかけていた(ように見えて依存先を御曹司に切り替えただけの)弟」が、前よりまして不安定になり、よけいに御曹司の望むような栄光をつかみづらくなったうえに、「さらなる栄光が掴めれば母に認められるのではないかと誤認したままの御曹司」が、「きちんとした実力があり精神的に健全な兄」をチームに取り込んだ。

それによって、「お金は出しているけれども実際には飾りのコーチである御曹司」が、「きちんとした実力があり精神的に健全な兄」によりその居場所を失い、さらには「当時、兄の代わりに御曹司に依存するようになっていた弟」とは異なり、「きちんとした実力があり精神的に健全な兄」は御曹司のいうことに盲目的には従うようなことはしない。

さらに「新しい栄光のために兄を利用したい御曹司」は、「チームに来た時より精神敵に弱くなって、元の依存先に戻った弟」への興味をなくすが、それにより「自分を盲目的に信じてくれるレスラー」という存在を失ったことに対して自覚的ではなく、「自分を盲目的に尊重してくれるコーチ」を手に入れたかのように誤認しているようにも見える。

デュポン氏は、この最終的な体制になったあとにTV取材を受け、やたらと「アスリートには尊敬できるコーチが必要」「コーチとは父であり兄であり人生の指導者であり……」などと滔々と語るけれど、彼は「そのような存在になりたかった」だけで「そのような存在である」わけではないという。しかし自分でそこに気付いているのかは疑問です。

そしてその「尊敬できるコーチ役」を「母親」の前で直接演じてみたものの、母は(見抜いたのか興味がなかったのか)すぐに退室してしまう。そしてオリンピック予選で「依存先を失ったままの弟」は1度負け自棄を起こし、「再度依存先を兄に切り替えて若干復調」し、「優秀な兄」は「個人主義者で、スポンサーである御曹司にも盲従する意思を見せず、自分たちのためには御曹司を排除することもある」状態で、自棄を起こした弟に御曹司を近づけない対応を取る。

そして気まずくなったところで「承認欲求を果たせないまま」承認してほしい最大の対象である御曹司の母は亡くなり、弟はデュポン氏への依存から離れ、手元に残ったコーチは自分に盲従してくれるわけでもなく、オリンピックではメダルに届かず……。安直な見方をすればここでデュポン氏はなにもかもなくしてしまっていることになる。

と、こうしていくと「映画の中では、じりじりとデュポン氏が歪んでいき、最終的に事件につながる」のは「なんとなく理解できる」感じに仕上がっていると思います。

 

象徴的なシーン

弟は、デュポン氏側の人物がつくりあげたスピーチ原稿を渡され、数百人の前で「デュポン氏は兄のような父のようなすばらしいコーチです」的なことをペロっと言ってしまう。それができるほど、デュポン氏に盲従している。

兄は、テレビカメラの前で、カメラマンと一対一であっても「デュポン氏が人生の師だ」と言うことができない。それだけちゃんと距離を置いていて、心の中で尊敬する人とスポンサーは別、自分の人生とレスリングのスポンサーは別、という、ある意味当たり前のことがきちんとわかっているわけです。

けれどもこれ、兄の方はぱっと見一対一ですれけど、TVで放映される以上、パーティ会場での数百人以上の人間にその言葉が届いてしまうわけですよね。このシーンは非常に生々しいシーンだなあと思って見ていました。


あと、「君がはじめての友人だ。昔友人だと思っていた少年に母がお金を渡すところを見てしまった。彼は金で雇われた友人だったんだ。」と言われたとき。弟は単純に(俺はそんな薄情な奴とは違うぞ、そして俺と彼は友人だったのか嬉しい)ってなっているっぽいんですけれども。

もしこれを言われたのが兄だったら、きっと弟とは違って(その少年と俺とは何が違うんだろう、ていうか俺とあなたは友人じゃないですよね)ってちゃんと線を引けるとは思うんです。でもここでウソでも「そうですね」とは言わない感じがある。

この「ウソでも追従できない」っていうのが、デュポン氏のようなタイプにとっては致命的だったのではないかなあ、と。

ちなみに「この兄弟のどっちかが日本人だったらこの事件起きなかった」とか言い出したのは、この「追従」のバランスが日本人ならうまくこなせそうに思えるからです。ああ、もうちょっと裏を読もう!? もうちょっと自分のために裏を読もう!? もうちょっと相手のために裏を読もう!? って思って……。


ぐわあムダになげえし言いたいことまとまってねえし!! でもだいた映画を見て漠然と感じていたことは……書き出したかな……!?

も、もう1回だけ続くんじゃ!!

 

 

 

 

 

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